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  • 井上大辅

目は口ほどに

更新日:2020年12月17日

このブログでは、実体験に基づくことを書いて、私という人間が過去のどのような体験によって構築されてきたのかを紐解いていきたいと思っています。

更新頻度はそれほど多くないのですが。

他人には興味が湧きにくい内容でしょうし、わざわざこんなことをネットに晒すことに恥ずかしさも感じます。

しかし、これも創作活動の一端として、すべて創作に還元していくつもりで書いています。

今回もそういう内容です。

振付家やダンサーの活動は、ダンスの創作、ダンスの上演だけではありません。

ワークショップ(WS)やレッスンのように、劇場外での活動もあります。

私もこれまで多くの現場を体験してきました。

その中のやりとりで、現在もずっと身体の中を巡っている、ある少年の問いがあります。

- 踊りたいけど、体が動かなくなっていく僕はどうやって踊ればいいの? -

小学生だった彼はパーキンソン病を発症していて、

あの時すでに、身体のほとんどを自力で動かすのは困難なようでした。

「動かせるのはどこ?」と聞いた私に、彼は「目」と答えました。

- じゃあ目を動かしてみよう -

私と彼のこのやり取りは、60分のWSの中のほんの一瞬でした。

その一瞬のやり取りが、今日に至るまでずっと、私の身体の中を巡り続けています。

彼の「身体を動かしたい」という欲求を少しでも満たすことができただろうかと、ずっと反芻しています。

私は、彼の問いにちゃんと答えることができなかったと思っています。

私のソロダンスは、身体を目一杯動かすことが軸になっています。(今のところ)

創作していくとどうしてもそうなってしまうのですが、それは「ダンスとは身体を目一杯動かすことである」という意識の表出でもあります。

しかし、次の創作に向けて、今はこんな風に考えています。


“動”でしか表現はできないのか

“静”とはどういった身体なのだろうか

“動けない”=“表現できない”にはならないのではないか

“動”の中に視る“空虚”

“静”の中に視る“充実”

今もう一度、彼の問いに答えられるとしたら。

私自身が目の表現だけのダンスを体験し、それでもダンスができるということを伝えなければならないと考えています。

つまり「目で踊ってみせる」ということですが、それが「目を動かせばいい」という話ではないということを、彼はあの時すでに分かっていたのかもしれません。

なぜなら、彼ほど「動かせる場所を動かすこと」に切実だった人はいなかっただろうと思うからです。

そして彼に対してもう一言付け加えられるなら。

もし彼が踊りたいと思っているなら、一緒に踊りを創りたい。

ダンスは踊りたいという意思さえあれば、どんな形でも実現できるということです。

やはり、ダンスは誰にでも開かれた表現でなければならないと思うのです。

乱暴な考え方だと言われるかもしれませんが、彼の問いの背後には、同じような問いを抱えた多くの人がいるかもしれないということを、私の肝に命じておく必要があるわけです。

彼、あるいは彼のような人たちと再び出会った時に、一緒に目一杯踊りたいと思うのです。

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「いい加減、黙っているわけにもいかないぞ!自分の創作活動のためにも、言葉を発信しなさい!」と自分を焚きつける気持ちと、 「けれども、世の中であまりにいろんなことが起きすぎていて、何かを言葉にするのは鬱陶しい…」というような気持ちが綯い交ぜだ。 相変わらず舞台には立っていない。次に舞台に上がる時は、私は新人のような気持ちで初々しく公演をする、かもしれない。 会場にわざわざ足を運んで観たいと思う公演も

というのは私の持論ではなく、最近読んだ本の中の一節。数百ページある本の中のこの一節が、私が私と向き合う大きなきっかけを与えた。それを書いてみようと思う。 自分とダンスが歩んできたこれまでを「夢」と「憧れ」をキーワードに検証してみる。 ダンスをやりたいと思ったのは、初めてダンスを体験した時の充実感が他の何にも代え難いものだったからだ。そういう体験から、生涯踊り続けたいという「夢」へと展開していった。

時の経過が早いのか、私の更新が鈍いのか、本年最初のブログはもう3月も後半に入ろうかというタイミングになってしまった。「明けましておめでとう」という浮わついた気持ちはどこに行ってしまったんだろう。そもそもコロナ禍では「おめでとう」の気分は毎年どんどん薄まってきていたけれど、今年の「おめでとう」を言う機会を逃していた間に、世界はさらに酷いことになってしまった。1日1日を生きることが毎年どんどん命がけに