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  • 執筆者の写真井上大辅

ちょこようっと思い出した


10年以上前、当時関わっていたダンスプロジェクトのリーダーに「どうしてダンサーよりスタッフのほうがギャラが高いのか」と聞いたことがあります。コンテンポラリーダンサーのギャラは、そのプロジェクトの期間中の交通費や食費を賄えるかどうかというぐらい少なく、どのダンサーもそういう経験をしてきているので、その時は誰かに筋の通った説明をして欲しかったのです。リーダーの回答は「スタッフの方が偉いからかな」。果たして本当にそうなのか。。。

当たり前ですが、ダンサーがいないことには舞台は成立しませんし、スタッフがいないことにはダンサーは舞台に立つことができません。作品のクオリティの向上や、舞台上と客席内の安全性と快適さの確保についてのスタッフの責任は、ダンサーが持つ責任とはまったく違う性格のものです。その上さらに、私の現場では、スタッフに創作の一端を担ってもらうことあります。音の製作や照明演出の相談、客席からどう見えるかの意見をもらいます。

創作者自身ではないスタッフに、その折り重なった責任を果たしてもらうのに、ダンサーと同じギャラというのは必然的に無理が生じます。やはり、スタッフのほうが偉いのであり、責任も重いのです。

(それでもダンサーのギャラの安さは問題ですが、それはまたいつか話せたらと思います。)

そういった本来のそれぞれの業務での責任と、創作の責任のバランス感覚をもったスタッフが、私にとっての頼れるスタッフです。こういう人は滅多にいません。

幸い、私はこれまでにそういうバランス感覚に優れたスタッフに出会うことができました。その人たちは、私が自分のことに集中できる環境を現場でつくってくれます。10年以上のお付き合いですが、低予算の依頼を引き受けてくれたり、本来の役割ではないような仕事を頼むこともあったりしました。そういう時は、その人たちでないと公演を成立させることができないということを理解してもらって、お願いしてきました。

そんな創作の協力者に出会えたことが私の活動の支えになっています。

そして、これからもそれに甘んじず自身の創作を続けていきたいと思います。

ダンサーとスタッフは、雇い雇われの“カネの関係”です。“カネ”は上演を成功に導くために、互いに欠かすことができない“保証”です。ダンサーとスタッフにおける“カネ”は、創作における信頼関係によって成り立つ、数字だけでは表せない価値を創造しているものというのが私の考えです。しかし、その金額は支払う側がどれだけその人に価値を見出しているのかを数字でハッキリ示しているものだという当然のことを忘れてはいけません。誰が偉いかということではなく、どうやって互いに必要なことを実現させる為に折り合いをつけていくかということが重要だと考えます。

高くても安くても雇用は雇用、「ちょこっと」はないですよね。


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